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河原田地区の概況

河原田地区の歴史

河原田は、鈴鹿川と内部川に挟まれた氾濫原に位置し、たびたび大洪水に見舞われる事が多く、内部川沿岸に水田が広がることによって河原田という地名がつけられたと云われています。
河原田地区は、平安時代には伊勢神宮領となっていました。南北朝時代には有田氏が河後(川尻)城を築き、織田信長の北伊勢進攻まで、長くこの地を統治していました。  
江戸時代から明治に至るまで、大治田村、内堀村、南川尻村は、幕府直轄領に、今宿村(現在の南河原田)貝塚村は津藩、川原田村は久居藩、北川尻村は桑名藩の管轄となりました。古来から内部川、鈴鹿川の水害に苦しめられていたようで、1659年の大洪水では、川尻、川原田、貝塚、内堀の各村が大きな被害を受け、村のあった場所を移したと伝えられています。
伊勢参宮街道が集落を通り参宮客が繁く往来しました。1889年(明治22年)には、五つとなっていた村が合併して三重郡河原田村となり、その後1954年(昭和29年)に四日市市に合併し現在に至っています。
河原田山丘陵地の斜面には、明治40年代熊沢市兵衛翁が静岡のみかん栽培を当地に伝え、河原田みかんの栽培が盛んになりました。
地域には、南北に走る国道23号線などがあり、こうした交通の便から1979年(昭和54年)には、北勢公設地方卸売市場が開設され、食品卸団地の形成や関連する流通施設も立地しています。

地区面積=5.32㎢ 地区人口(四日市市公式ページへ)

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