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ふるさとマップ 河原田地区の名所・旧跡

名所・旧跡案内


地図上のポイントマーカーをクリックすると、その場所の情報が表示されます。

日永の追分

三重県史跡「日永の追分」は、かっての東海道(現在の県道407号線)と伊勢街道(現在の国道1号線)の分岐点に設置され、交通の道しるべとして、親しまれてきました。日永の追分由来: 史跡「日永の追分にある鳥居」は、古くは桑名の「七里の渡しにある鳥居」と並んで二の鳥居といわれ、安永3年(1774年)に、伊勢出身の江戸商人が道しるべとして創建し、伊勢神宮の遷宮に併せて造営され、現在に至っています。

また、三重県史跡「日永の追分」には、浄水が噴出しています。

東海道にある大治田への道標

東海道(小古曽町)に大治田への道を示す道標が建っています。
(左 追分 右 大治田 と刻まれています)




大治田跨道橋

跨道橋までが国道1号線、跨道橋の下をまっすぐに進むと伊勢街道(県道103号線)となります。跨道橋の上は左側が国道25号線、右側は国道1号線となります。



密蔵院の道標

伊勢街道に沿って密蔵院の案内道標が建っています。




神明社(大治田町)

大治田町の西南隅、大字西浦697番地に在り、神域は570坪。祭神は、大日孁貴命(おおひるめむちのみこと=天照大御神) 大山祇命(おおやまつみのみこと=山の神) 寛文13年(1673)大治田大字開進897番地(密蔵院の西隣)に創建されたが、大正4年(1915)10月31日川尻町熊野神社へ合祀されました。昭和2年熊野神社より分離、同年4月16日、正遷宮を行い、ここに大治田神明社は再建されました。

蟹薬師密蔵院(大治田町)

大治田町のお寺、蟹薬師蜜蔵院は元の名を蟹築山東元院といい、弘仁元年(810)、弘法大師空海(774~835)によって創建されたと伝えられています。明治5年に廃寺となりましたが、明治13年に松阪より密蔵院の号を譲り受け現在に至っております。同寺は三重四国八十八ケ所十二番札所(古くは北勢四群新四国第十番札所)として親しまれてきました。境内には、薬師如来をまつる本堂のほか、不動堂、弁天堂、地蔵堂、お稲荷さんがまつられています。


蟹薬師蜜蔵院の由来

昔々のある日、大治田の地に続く浜辺より、背の甲羅に薬師如来様を乗せた大きな蟹が現れ、当大治田の地まで薬師如来様を運び息絶えました。これを見た村人が集まって、この地にお堂を建て薬師如来様をまつろうと衆議していたところ、これを聞いてか、浜辺より背の甲羅に砂を乗せた数万の小蟹が現れ、お堂の基礎を作ったと伝えられています。 本堂には、この薬師如来様と共に、薬師如来様を甲羅に乗せて運んだ蟹がまつられています。その後、大治田の人々は蟹を食べることは無く、大治田の地は蟹に守られて、火事の無い平和な村として栄えたと伝えられています。現在でも、大治田町内の年配の人の中には、蟹を食べたことが無い人がたくさんみえます。

(この蟹はご本尊薬師如来様の台座の下にまつられています。)

蟹薬師密蔵院の弁天堂(大治田町)

大治田町のお寺、蟹薬師蜜蔵院には弁天堂があり、弁財天がまつられています。 弁天堂は、伊勢七福神霊場巡りの一つとして、バスツァー等、参詣客が絶えません。

伊勢七福神霊場巡りツァーは、三重県内にある下記七つのお寺を参詣し、朱印をいただくもので、掛け軸と額の2種類があり、正月用の床の間飾りとしても非常に立派なものです。
伊勢七福神霊場巡り案内:
   恵比寿神   土佛山    桑名市北別所156
   大黒天    大福田寺   桑名市東方1426
   毘沙門天   信貴山別院  四日市市生桑町毘沙門山
   弁財天    密蔵院    四日市市大治田2丁目10-7
   福禄寿    大聖院    四日市市日永2丁目11-7
   寿老神    荒神山    鈴鹿市高塚町1777
   布袋尊    石上寺    亀山市和田町1185


県道103号線から伊勢街道に入る

県道103号線から右手に分かれて伊勢街道に入る。




表忠碑・平和之礎

大治田3丁目一里山には表忠碑と平和之礎があります。




内部川を渡る

かってここに木造の橋があり、この橋を渡って伊勢街道は河原田へと続いていた。
現在はここにNTTの電話ケーブルが通っている。



又兵衛橋・伊勢街道

日永の追分で東海道と分岐して伊勢に通じる江戸時代からの主要な道のひとつで、当時の面影が所々に残っている。又兵衛橋は、 内部川のすぐ南側にある谷川を跨ぐ幅5.8m,長さ6.8mの橋です。人の名前がつけられているのは珍しく、また古い時代を連想する名前です。名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきています。昭和13年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であった。

常夜燈(北河原田町)

昔は、橋の手前に常夜燈があり、追分から分かれた伊勢街道の一つ目の道しるべとして旅人を迎え、そして又兵衛橋を渡り街道へと続いた。この常夜燈は、天保14年(1843)に内部川堤防に造られたもので、高さ4.7mで、入母屋型笠をもつ神前型と記されています。現在は、昭和44年に堤防改修に伴い谷川上流の道路沿いの一角に移築され、暗くなると電灯がともり、道行く人々の足元を照らし続けています。

正福寺跡

万治2年(1659)の大水害により集落(算所、芝原、中川原田、東河原田、貝塚、内堀、川尻)が移転した。正福寺も現在の市民センターの地に移築された。正福寺は明治5年廃寺となるが、明治8年同寺に「人民共立河原田学校」が創立された。また同寺は明治22年河原田村発足より昭和29年四日市市に合併するまでの間、河原田村役場として、合併後は河原田支所として、現在の市民センターが出来るまで地域の発展を支えました。
(写真は旧村役場時代の正福寺)

河原田小学校

明治8年11月9日、「人民共立川原田学校」創立。(廃寺となっていた旧正福寺を仮用=現市民センターの地)、「大治田学校」創立。(説教場を仮用)、明治9年「内堀学校」創立、明治13年「公立川原田学校」と改称し、正福寺に再開。新たに内堀、川尻、大治田の児童を収容する 「大河内学校」を設けた明治16年小古曾村地内に「良田学校」が開設され,「大河内学校」は廃校となる 明治18年河原田村への村名変更に伴い、「河原田小学校」となる。明治22年5村合併し河原田村となる。

一里塚跡

慶長9年(1604)今の小学校西南角に造られた伊勢街道最初の一里塚であったが、明治2年に樹木が切られ、今は無い。(街道の西側には松が、東側には榎が植っていた様である)

谷川桜並木

三神山ふもと一帯に植えられ四日市市の桜の名所のひとつになっている。毎年3月下旬から4月上旬に河原田桜まつりが開催される。



竹林公園

四日市市市民緑地第3号に指定されている。




河原田神社

所在地:河原田町3048番地
河原田神社の祭神は、天照大神、大国主神、弥都波能売神、猿田毘古神、宇迦之御魂神、建速須佐之男命、五男三女神、天児屋根命、品陀和気命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、仁徳天皇、木花之開耶姫命、市杵島比売命です。明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。  平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年再建されました。

忘帰處(ぼうきしょ)

河原田丘陵地東端で河原田神社のある三神山頂上の処にある記念碑のことで,ここから見る眺めは河原田随一の景勝地で田中光顕伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に,この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということから「忘帰處」と名づけられた。
標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるものである。山上からの眺めは一望千里に渡り晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることが出来、近年中部国際空港(セントレア)の開港に伴いその姿も間近に垣間見ることが出来る絶好の名勝地である。
平成18年度に山上付近は整備され看板・ベンチ等設置された。

弥生時代後期の住居跡・みかん山

地区の西部丘陵地帯はかっては波打ち際で、弥生時代後期の八幡、狐穴、中広、三神山等の遺跡があり発掘調査で竪穴式住居跡が発見されている。この台地は明治後半に熊沢市兵衛翁によりみかん栽培が伝えられ、今も「河原田みかん」として親しまれている。


常超院(南河原田町)

当院は、光明山常超院といい、およそ600年前正平23年(応安元年)(1368)に僧湛空の創建により天台宗の末流であったが、寛永年間(1624)に第十世法橋円空上人が真宗高田派に属した。本尊阿弥陀如来は、乾漆像(うるし作り)で胎内に納められている。正暦年間(990)僧奝然が蔵していた仏像であったが文治年間(1185)浄土宗の開祖、法然上人が之を奉安、のち寛永の頃十世円空上人が当院に奉安した。

大燈籠(南河原田町)

魚重の大石燈籠 後の建物と比較して燈籠の大きさが推察されます。




ダンゴ宮跡(貝塚町)

須賀神社の別名
貝塚字一の縄21地、貝塚村の北方、田の中にあった。東西13間半、南北25間半、307坪の神域には、樹齢100年とも思われる杉の大木が林立していた。祭神は、建速須佐男命(従来は「牛頭天王(ごずてんのう)」と称していた)、享禄3年(1530)6月の創造ならんかと明治12年7月の報告書にあるが現存の棟札は寛永14年(1637)6月を以って最古とする。明治42年神社合祀令により合祀、河原田神社と単称する。なお、当社は一名「だんご宮」と称し江戸時代に天然痘の流行を恐れ、ダンゴを赤く染めて供え悪病退散を祈願したものであり、今の天王祭の起源といわれている。

常夜燈(貝塚町)

貝塚町の入り口には明治28年、日清戦争の戦没者を祈念して建てられた2基の常夜燈がある。建設以来その明かりが一度として途絶えた事はありません。この常夜燈の横に、もうひとつ今では珍しい、木と瓦で出来た珍しい小さな常夜燈があり、今はない貝塚町須賀神社の入り口に建っていたものであり、貴重な文化財です。両常夜燈は、今も地区の人々により大切に保存されている。

法蔵寺(貝塚町)

法蔵寺は万治元年(1658)の創立にして宗貞首座を開基としています。伊勢国桑名長寿院木堂和尚により堂宇再建され中興とします。安政年間に震災の為堂宇傾倒して若干年間無住となりましたが、のち檀徒の皆様の協力により再建されました。(境内にある銀杏の木は四日市市の保存樹木第33号に指定されています。)


吉詳寺跡(内堀町)

八幡山吉祥寺といい開基年代は不詳である。寛政2年(1790)8月20日臨済宗妙心寺派の直末寺として指定を受ける。明治2年大津県の照会に対して無住の報告をなし明治5年11月廃寺となる。この寺跡には四日市市指定の大人三人の手回し程のトチの大木があった。


熊野神社(川尻町)

川尻町の西南隅、大字新屋敷2190番地に在り、神域の広さは455坪。もとは、390坪であったが昭和15年の紀元2600年を記念して今の広さに拡張された。祭神は、天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・素盞嗚命・大國主命・豫母都事解男神・菊理媛神・應神天皇・日本武尊・菅原道真公・大山祇神・不詳一座。慶長17年(1612)7月の再建にかかり、熊野三所権現と称していたが、明治元年3月28日の太政官布告により翌2年4月から熊野神社と改称した。大正4年8月19日に村内に在る他の三社(石の神神明社・須盞男社・八幡社)を合祀、同年10月31日大治田神明社、更に11月2日大治田山神社を合祀。昭和2年4月16日、大治田神明社は分離正遷宮を行い、大治田の地に神明社は再建されました。

明治100年記念桜並木(川尻町)

川尻町の関西本線沿い500mほどに、明治百年を記念して植えられた桜が立派に育ち名所となっている。



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